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安保法制について(9月1日)

安全保障法制の議論が最終段階となった。まず、私は憲法9条については、改正する必要があるとの立場にある。その第一の理由は、自衛隊は9条2項の「戦力」にあたると考えるからである。

話題の砂川判決では、憲法9条2項の「戦力」とは、「わが国がその主体となってこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうもの」と、「結局わが国自体の戦力を指し」としている。アメリカ軍はこの「戦力」に該当しないので、日本に駐留していても、9条2項に違反しないとの趣旨である。

9条2項の戦力が「わが国自体の戦力」だとすれば、自衛隊は「戦力は、これを保持しない」に間違いなく抵触する。自衛隊の廃止がありえないとすれば、それを合憲とする憲法の改正が必要だとするのが、私の立場である。

「個別的自衛権はある」との政府の解釈は、司法による判断を受けたものではない。司法は、自衛権は認めるが、自衛隊については判断を下していない。自衛権を他国の軍隊=アメリカ軍に依存することを認めただけである。

憲法学者の多くが「集団的自衛権」は憲法違反だと言う。しかし、まずは自衛隊による個別的自衛権が、合憲か否かの判断を示すべきだ。最高裁は、米軍による自衛を認めているだけだ。

政府が集団的自衛権を砂川判決が認めているというのは、誤り。日本という国家が自衛をアメリカに頼むことを集団的自衛としているだけであって、自衛隊という戦力が、アメリカ軍と共同行動することを指していないからである。

憲法9条をもち、前文で平和主義を掲げることで、「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」とあるが、戦後70年を経て、名誉ある地位にあるのかどうか。平和憲法をもち、世界第三の経済力を持つ日本こそ国連の安保理の常任理事国にふさわしいのではないか。

しかし、常任理事国入りのメドはまったくたっていない。常任理事国は、第二次世界大戦の戦勝国であり、核保有国である。さらに言えば、中国、ロシアは、中華民国、ソ連からその地位を引き継ぐ正当性はないのに、常任理事国の地位にある。これが国際社会の現実である。

イラン核開発の交渉国。常任理事国の米、英、仏、露、中に加えてドイツの6カ国。日本はなぜここに入れないのか。イランと強い経済関係を持ち、平和憲法をもち、なにより、唯一の被爆国。やはり、「国際社会において名誉ある地位」は占められていないと「思ふ」。

株価2万円

2015年6月29日

先週、株価は20,700円で終えている。ギリシャ財政危機を控え、今日以降の株価は不透明 。今のうちに、、、 僕が、今の野党、民主党、維新の党に不満なのは、マクロの経済政策についての視点が極 めて甘いこと。政権のもっとも重要な政策課題の一つがマクロ政策だから。 アベノミクスの1丁目1番地は、「異次元の金融緩和」。これに尽きる。この結果、安倍内 閣成立前の2012年11月と、現在を比較すると、株価は9000円が20000円に。円は80円が 120円に。バブル崩壊後に低迷していた日本経済に、四半世紀ぶりに画期的な変化が現れ た。 二つだけ経済指標を出す。有効求人倍率は、0.80が1.17に。外国人旅行者は、622万人が 1341万人に。僕は、これが異次元金融緩和の、つまり安倍内閣のマクロ政策の結果だと思 っている。このマクロ政策を、民主党、維新の党はどう捉え、自らはどう異なる政策を出 そうとしているのか? 民主党は、2014マニフェストで「過度な異次元緩和」よりも、経済、財政状況、市場環境 を踏まえ、「国民生活に十分配慮した柔軟な金融政策」を日本銀行に求めます。」として いる。異次元緩和を「過度」ととらえ、「柔軟な金融政策」をとしている。 「異次元」だからこそ、「過度」だからこそこの成果に至ったのであり、柔軟な金融政策 、つまり従来通りの金融政策では、絶対に株価20000円、円120円はありえなかった。民主 党は、柔軟な金融政策を行っていれば、今のマクロ経済指標がどうなっていたかを、述べ るべきだ。 ここは、笑うしかないが、「異次元の金融緩和によるアベノミクス一本目の矢は、円高を 是正して株価を押し上げ、経済回復へのかすかな光をもたらしました。」「かすかな光」 が、このアベノミクスへの評価とは、、、まだ、「過度」だから「柔軟」に、という民主 党のほうが、ましと言うしかない。 「異次元の金融緩和」が、長く維持可能な政策とは思えない。おそらく日銀総裁自身もそ う考えているはずだ。しかし、四半世紀続いた経済スランプを脱するには、この特効薬し かなかったはずである。 民主党と維新の党が、政権を目指すのであれば、まずはこのアベノミクスの第一の矢につ いて、明確な評価を示すべきであり、その代替策を国民に明示しなければならない。その 結果、どういうマクロ経済指標がえられるのかも、である。

AIIB(その2)

これが可能となったのは、ADBへの出資比率であり、日本、アメリカがともにトップの16%ほどを占めており、日米が合意すればADBのトップは事実上決まってしまう。

この国際金融機関の歴代トップを、一国の財務省のNO2が独占してきたというこの事実だけで、AIIBの成功の根拠が示されたことになろう。さらに、このADBが途上国のニーズを満たしてこなかったという、実態的な批判も強かった。融資の制約や油脂決定までの時間がかかることなどで、途上国のニーズを満たすものではなく、その改革も遅々として進んでこなかった。

こういったことを、如実に証明するのが、AIIBの成功の前に、ADBが融資決定の迅速化などの改革をあわてて行っていることである。

AIIBに対して、日本政府は「組織運営のガバナンスや透明性」を求めており、現段階では参加を表明していない。しかし、アジアの大半の国、さらに英・仏・独・伊などの主要国が参加を決めている(最終的には各国での批准が必要だが)ということは、「ガバナンス・透明性」に大きな問題はないと判断しているということだ。

今後、大きなインフラ整備の資金需要が生じるアジアで、トップを日本の財務省OBが独占し続けているようなADBだけではダメだという、世界の世論が、中国の高度な外交戦略を後押ししたと考えるべきである。(completed)

AIIB(その1)

「AIIBの成功は、大蔵・財務のADB総裁独占にあり? 」

アジアに二つの国際銀行ができる。中国主導のアジアインフラ投資銀行(AIIB)と、日米主導のアジア開発銀行(ADB)である。途上国の開発の金融支援が二元化することは、効率的にみて、好ましいことではない。なぜADBがあるのに、AIIBが作られたのか。そしてそのAIIBにアジアのほとんどの国と、世界の主要国の57カ国もの国々が集まった。それはなぜなのか。
AIIBの成功を、中国の外交戦略の前に日本外交が敗北したとかも言われている。しかし私は、この成功の原因は、日本の財務省のADBへの関わりへの世界の批判があったとみている。
ADBは、日本の旧大蔵省の主導で、1966年に発足した。本部こそマニラにあるものの、以下に示すように歴代総裁はすべて日本人である。

渡辺武                                   1966年11月 – 1972年11月
井上四郎                              1972年11月 – 1976年11月
吉田太郎一                         1976年11月 – 1981年11月
藤岡眞佐夫                         1981年11月 – 1989年11月
垂水公正                              1989年11月 – 1993年11月
佐藤光夫                              1993年11月 – 1999年1月
千野忠男                              1999年 1月 –   2005年2月
黒田東彦                               2005年 2月 –  2013年3月
中尾武彦                               2013年 4月 –

現日銀総裁の黒田東彦氏の名前が見られるように、彼らはみな大蔵・財務の出身者であり、NO2の地位である「財務官」出身者である。国際機関であるADBが実は、財務省の天下り先となっているのである。(to be continued)

無業社会 (朝日新書) 2014/6/13 工藤 啓 , 西田亮介

【この書評は、『国際公共経済研究』第25号(2014年9月)に掲載されたものです。引用等は、掲載誌からお願いいたします。】

本書は、就職できない、あるいは、就職しない若者を「無業」という言葉括り、この一種の社会病理の解明とその解決策を探ろうとする労作である。ともに若手の実践家と研究者による共著であり、二人のコラボレーションも注目されるところである。

この書の基本的視点は、無業の若者たちは、自らの資質などによってではなく日本の社会システムのあり方からそういった立場に追い込まれている、というところにある。その視点を踏まえて、本書は無業状態の若者を就業へ向かわせるための政治や社会への問いかけを行おうとしている。

この問題意識が現実を動かすところにつながるか否かは、本書がどれだけの説得力をもって本書の読者や広く世間に問いかけられているか、にある。その視点で、私の本書への疑問を述べるところから紹介を始めたい。

 

【無業と生活保護の間】

私は、「失業」という言葉を用いずに、「無業」という言葉を使って仕事に就かない若者の実態を解明し、その一種の社会病理の解決を図ろうとしたのは、本書の卓見だと思っている。

日本では、「失業者」は統計上、月末の一週間に実際に仕事を探した人に限定されており、仕事をそもそも探さない人、探すことをあきらめている人は、そこから除外されている。しかし、現実には働く意思は持ちつつも、求職活動を行わずに「失業者」の定義の枠外に置かれている存在がある。彼らを含めて、「無業者」という新たな概念で括ったのである。そしてその中で、就職活動を行っていない、失業者にも該当しない(非求職型無業者)層に焦点を当てたのが本書である。

しかし若者全体で見れば、非求職型の無業者は一部にすぎない。若者たちは仕事をしている「就業者」、無業者の中で実際に仕事を探している「失業者(求職型無業者)」、そして本書が焦点を当てる「(非求職型)無業者」、そして「ホームレス」、「生活保護受給者」に分かれる。さらにそこには、「学生」も含まれる。本書は、この様に若者全体から問題を考えていく視点に欠けている。本書は、無業状態にある若者からの丁寧なインタビューを行っている。そしてその状態に陥ったきっかけが、人間関係、突然の解雇、就職試験に落ち続けること、などにあることを示している。しかし、強く違和感を持つのは、ホームレスや生活保護受給者となっている無業者からのインタビューがない点である。

無業問題への取り組みが社会的に必要だということを説得力をもって論じるには、親との同居や支援がかなわずぎりぎりの思いで働き続けている若者や、ホームレス、生活保護受給者となっている若者にも目を向ける必要があったのではないか。「働かざる者食うべからず」などと言う気は毛頭もないが、本来、働かなければ食べられないのである。

本書は、「親のすねをかじれるから働かないのでは?」という問いに「正社員でなければ同居するしかない」と答えている。しかし若者たちには、同居できる環境にあるものと、同居しようにもできないものがいる。であるのに、本書は事実上、親との同居が可能か、あるいは一定の支援を得られる「働かなくても食えている、非求職型無業者」にのみ焦点を当ててはいないだろうか。

また、無業は景気変動と無縁ではない。特に、本書で述べられているように、日本で少子化が進むことで、若者自体の人口が減っていく中で、昨今の景気回復が伴えば、有効求人倍率の上昇が続くことは間違いない。今まで「買い手市場」であった労働市場が「売り手市場」に変われば、面接などの選抜のあり方は、求職者に有利な方向で変わっていくものである。その結果、非求職型無業者が再び労働市場に戻っていく可能性は低くないはずである。そうなれば、景気回復によって無業問題は、いわば自動的に縮小していくのかもしれない。この点への論及もあってしかるべきであった。

非求職型無業は、ぎりぎりのところで働き続けている就業者や、失業者(求職型無業)と相当の関連を持つはずなのに、本書はその点の分析に乏しいのである。

 

【無業は、日本独自の問題なのか】

無業の問題は、日本が抱える多くの社会病理の中での一つの各論である。しかし、それは単なるひとつの各論ではなく、「日本の社会システムの歪みの典型的な象徴」であるとするのが、本書の立場である。だからこそ、無業の問題に目を向けて、その解決をはかることが社会的に求められており、そのことが結果的に、日本の社会システムの歪みの是正にもつながるとの思いが込められている。

その上では、無業が日本の社会システムの歪みの結果生じたのか否かが前提となるが、「日本の社会システム」と大上段に構える以上は、他の先進諸国と日本の社会システムの異同をある程度は明らかにする必要がある。少なくとも、無業と関わるところについては、両者の異同について、何らかの言及は必要であっただろう。

欧米諸国の中では若者の失業率が、3割から4割に上る国は数多く存在する。これらの国は、日本に比べて統計上の失業の基準が緩いために、本書がいう「非求職型無業者」の相当部分が失業者に入り込んでいると考えられる。これらの国は、数百万人もの「失業/無業」の若者を抱えている。その中に「非求職型無業者」が、日本以上に含まれている可能性もある。

日本の無業者が、日本独自の「歪み」によって生じたものなのか、成熟段階に達した先進国共通の問題なのかの見極めは、決定的に重要な問題なのである。しっかりとした国際比較を行った上で、「日本」の無業が、「日本の社会システム」の独自の歪みによって生じたことを示すことができれば、本書の価値はより高まったであろう。

 

【求められる具体策の提示】

本書は、無業の若者と実際に取り組む実践家と、社会科学の研究者との共著である。そこで求められるのは、実践事例から発する、なんらかの具体的な解決策の提示である。しかし本書では無業に対する調査の必要性や、「①現段階で困窮している人の救済、②若年無業者の就労促進、③無業者を労働市場に再参入できる仕組み作り」をあげるにとどまっている。日本の社会システムの歪みを是正する総論の提示は難しいにせよ、なんらかの複数の具体策の提示はあってしかるべきではなかっただろうか。

本書の中で、「面接を避けるというわけではないのですが、働きぶりを先にみてもらえるものにチャレンジ」という若者の言葉が紹介されている。企業に対して、面接せずに仮採用をして給料を払い、その姿をみて本採用してほしい、という内容である。本書はこの言葉を肯定的にとらえていると考えられるが、そうであるならば、たとえば、「面接が苦手な若者のために、採用に直結するインターシップ的な制度を日本企業に導入すべき」という具体的な提案があってもよかったのではないか。また、仮に無業の多くが景気の低迷によって生ずるものであるならば、景気の回復によって問題の一定の部分は解決することになる。また、その原因が、日本独自のものであれば日本独自の対策が必要となり、先進主要国共通の問題であれば、その対策の中心は、先進国共通のものとなる。こうした検討の不足が、本書が抽象的な提案に留まっている一因と考えられる。

 

【なぜ、政府の取り組みを検討しないのか】

本書の具体的な提言がなされていないことのより深刻な問題は、政府の政策への言及がないことである。

実際には、政府も、無業や生活保護の問題に長く取り組んできており。2013年秋の国会で、「生活保護法改正案」と「生活困窮者自立支援法案」を成立させている。この自立支援法は、生活保護受給者に限らず、広く失業者(本書が言う無業者を含む)や生活困窮者を就業に導き、自立支援の制度を作り上げようとするものである。

この法律が十分なものだと言うつもりは全くない。しかし本書の執筆段階から、政府の中で具体的にこの議論が展開されており、その情報も公開されていた。本書が主張しようとした、無業の若者を就業に導くという問題意識は、この法律と相当の部分で重なるはずである。しかし本書では一切この法やその制定に至る議論に触れられていない。本書が掲げる問題の本質が日本の社会システムの歪みにあると指摘するのならば、政府の取り組みのどこが不十分なのか、対処の仕方のどこに間違いがあるのか、あるいや問題の把握の仕方に欠陥があるのか、といった指摘はなんとしても必要であったし、私も筆者の見解を知りたいところであった。

無業という一つの社会の病理現象に着目して、それを無業に陥った若者の自己責任の問題ではなく、日本の社会システムの歪みの問題だとする本書の視点は評価できる。そして、この無業問題を国民の多くが認識して対策に取り組むことが、個別の社会問題の解決にとどまらずに、日本の社会システムの歪みの是正につながるとの筆者の思いも理解できる。

しかし、ここまで述べてきたように、本書がそれを一定の説得力をもって人口に膾炙することに成功する構成になっているとは思えない面も多々ある。無業という深刻な問題に取り組む、本書の筆者である若い実践家と研究者とのコラボレーションが進み、実践と研究を深めて、説得力をもった提言がなされることを期待したい。

フライング(発売前)書評 樋渡啓祐著『沸騰!図書館』(角川oneテーマ21)

【5月10日発売のこの本を、9日、twitterで紹介しました。】

「閉館は夕方。それ以降に利用したいと思う市民がいてもまず利用できない」「僕はこういう図書館が嫌い」。「本は人生を豊かにする。その本が集まる図書館は多くの人が利用できるようにするべきだ。」。御意!

改革後、来館者は3.2倍。つい先日、100万人を突破。まさに「多くの人が利用」できるようになった。ちなみに、改革前後で、年間開館時間は、なんと2倍超。開館時間が延び、休館日がなくなったから。それにしても、2倍は見事!しかしこれに文句を言う人も!

その文句を言う人として、この書で批判されているのが、図書館総合展(2013年10月)の「武雄市図書館を検証する」シンポに、樋渡啓祐市長と登壇した、糸賀雅児・慶応義塾大教授。僕はこのシンポの記録を見ていたので、本書の中での市長の反批判に、快哉!

糸賀教授の武雄市図書館批判はシンプル。「来館者は、3.2倍になっているが、図書貸し出し数は1.6倍」。これでは、成功とは言えない、と。来館者の大半は、スタバと雑誌だ。図書館じゃなくて「ブックカフェ」「マガジンカフェ」とまで言い切っている。

糸賀教授は、来館者数と図書貸出数の変化は同じであるべきだ、と述べているが、来館者数の伸びに、貸出数が追いついていないことが、武雄市図書館の改革を否定する論理になぜなるのか?減っていれば問題なのはわかるが、1.6倍にも!!なっているのに・・。

僕は、何度も武雄市図書館を訪れている。残念ながらまだ本を借りたことはない。でも、スタバのコーヒーを飲みながらページをめくるのは、至福の時間である。しかし、糸賀教授からすると、僕は図書館の目的外利用者で、員数外らしい。

糸賀教授は、図書館総合展シンポでは、武雄市図書館と伊万里市図書館を比較して、武雄の図書館資料の利用率が低い、とも批判している。カフェも新刊書店もない伊万里市図書館と比較することが疑問だし、図書貸出数が1.6倍になっていることから類推するに、図書館資料の利用絶対数も増えているはず。

樋渡市長の本書にある「本は人生を豊かにする。その本が集まる図書館は多くの人が利用できるようにするべきだ。」として、見事に来館者数3倍超を実現したことにたいして、糸賀氏が貸出数の伸びが追いつかないことなどをもって批判する学術的根拠が僕には理解できない。

ひとつだけ糸賀氏がすごいと思うのは、武雄市図書館を「フックカフェ」「マガジンカフェ」「武雄ナレッジパーク」「知のワンダーランド武雄ドーム」と、図書館以外のネーミングをたくさん出しているところ。樋渡さん、いっそ武雄市図書館を「知のワンダーランド・武雄」とかに変えちゃえば??(了)

日本国憲法前文の世界情勢「観」②完

再び日本国憲法前文である。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」とある。もしこの理念が現実の国際社会の中にもあるのであれば、戦後70年近くにわたって世界の憲法の中でも稀な平和主義を掲げる憲法を維持してきたわが国こそ、安全保障理事会の常任理事国という「名誉ある地位」を得て当然のはずである。しかし、現実には得られていない。

さらに、戦後の国際社会は実際に多くの戦争、紛争を経験してきた。「平和を愛する諸国民」同士が、戦争を繰り返してきたのである。また日本の国民を拉致し、日本に向けてミサイルを発射する北朝鮮も国際社会の一員である。国際関係は日々、変化するものである。終わったと思われていた冷戦が、ウクライナ危機で復活しつつある。またアメリカとの軍事同盟を1992年に破棄したフィリピンが、中国の脅威の前に再びアメリカとの軍事同盟を組んだ。これが、国際社会の現実である。

日本国憲法のすべての前提には、日本国民の「安全と生存」の保持があるはずである。これを、「平和を愛する諸国民」を信頼して保持できるのか否かが問われるべきなのである。

日本は、9条の規定にかかわらず、すでに現実に自衛隊という紛れも無い「戦力を保持しており、アメリカとの軍事協定の中でわが国の「安全と生存」を保持している。日本の「安全と生存」の保持の実際のあり方と、憲法前文、9条との間には間違いなく大きなギャップがある。ふと思い出したのが、1994年の自民党・社会党・さきがけの連立政権である。当時の自民党は、政権復帰のために、社会党左派の、護憲主義者の村山富一氏に国政を委ねた。その際に自民党中枢が村山氏に尋ねたのはたった二点だったという。ひとつは、自衛隊を解体するのか、もう一つが日米安全保障条約を破棄するのか。村山氏の答えはいずれもノーであったという。

集団的自衛権をめぐって、憲法解釈の変更が議論されている。今こそ、日本の「安全と生存」の保持のあり方を問いなおすいい機会である。私はその議論は、憲法前文の世界情勢「観」の見直しから始めるべきだと考えている。

日本国憲法前文の世界情勢「観」①

日本国憲法の特色に、基本的人権の尊重、三権分立、平和主義があげられるが、前2者は現代の主要国家共通のものであり、平和主義こそが日本国憲法独自の特色である。この平和主義は、憲法前文の「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」という認識と、それに基づく憲法9条の「戦争」「武力の行使」を放棄し、「戦力」を保持せず、「交戦権」を認めない、から成っている。
憲法9条の是非やその解釈は、多く議論されているが、私はなによりもこの9条を支える憲法前文の世界情勢や国際関係についての見方、認識について議論すべきだと考えている。

人類は二度の世界大戦を経験しているが、第一次世界大戦では、戦後、戦勝国も軍縮に取り組んだ。戦争のない世界を、軍縮により実現しようという思いがあったのである。しかし、第二次大戦では、敗戦国である日本、ドイツ、イタリアに武装解除を求めたものの、戦勝国は軍縮に取り組むことはなかった。軍縮により平和の実現をはかろうとした第一次大戦後と違い、第二次世界大戦後の国際社会は、戦勝国の武力でもって、平和を維持しようとしてきたのである。
憲法前文にある「平和を維持し、専制と隷従・・を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会」とは、日本の憲法9条にある武力放棄でもって平和を志向するものはなく、戦勝国の武力でもって平和を維持しようとしたものなのである。
このことは国連の、国際社会の平和の維持のもっとも重要な役割を占める安全保障理事会の常任理事国を、戦勝国5カ国が独占を続けていることからもあきらかである。これらの国は、すべて核保有国でもある。(続く)

中国の防空識別圏を考える②完

いうまでもなく防空識別圏は領空ではなく、公海上空であり、基本的に自由航行権がある。また、日本の防空識別圏と重なる中国の防空識別圏を通過するに際して、日本の民間航空会社が事前報告を行えば、事実上、日本が中国の防空識別圏を認めたことにもなりかねない。だからこそ、日本政府は、日本航空や全日空に対して、事前報告を中国にたいして行わせないようにしているのである。

しかし、中国の防空識別圏の設定発表と同時に発表された公告によると、防空識別圏を飛行する航空機は、中国側の指示に従わなければならないとしており、従わなければ武力で防衛的緊急措置が取られることも書かれている。これは公海上空での武力行使を行うことを意味していて、国際法上許されるものではないが、書かれているという事実は事実である。

1983年の大韓航空機撃墜事件は、領空侵犯という緊急事態への対応の中で起きた不幸な事件である。現状は、石原代表が危惧するように、中国防空識別圏への日本の民間機の事前報告なき飛行は、国籍不明機と判定されても仕方がない状況での「侵入」という状況になっているということである。そしてそれは、国際ルールでの「スクランブル対象」どころではなく、「武力」行使の対象でもあるのである。

米国は、中国の防衛識別圏の設定を強く批判しながらも、連邦航空局FAAがユナイテッド航空やデルタ航空に対し、中国側の要求に従って飛行計画を通知するよう勧告し、事前報告を行っている。このことの真意については、いくつかの解釈がありえるが、私は、米国が、自国の民間航空機への万一のリスク回避のためにやむなく取った方策、とみるのが妥当ではないか、と考えている。

これはわが国にとって高度な外交マターである。いうまでもなく防空識別圏は領空ではなく、公海上空であり、基本的に自由航行権がある。また、日本の防空識別圏と重なる中国の防空識別圏を通過するに際して、日本の民間航空会社が事前報告を行えば、事実上、日本が中国の防空識別圏を認めたことにもなりかねない。だからこそ、日本政府は、日本航空や全日空に対して、事前報告を中国にたいして行わせないのである。

しかし、中国の防空識別圏の設定発表と同時に発表された公告によると、防空識別圏を飛行する航空機は、中国側の指示に従わなければならないとしており、従わなければ武力で防衛的緊急措置が取られることも書かれている。これは公海上空での武力行使を行うことを意味していて、国際法上許されるものではないが、書かれているという事実は事実である。

1983年の大韓航空機撃墜事件は、領空侵犯という緊急事態への対応の中で起きた不幸な事件である。現状は、石原代表が危惧するように、中国防空識別圏への日本の民間機の事前報告なき飛行は、国籍不明機と判定されても仕方がない状況での「侵入」という状況になっているということである。

米国は、中国の防空識別圏の設定を強く批判しながらも、連邦航空局FAAがユナイテッド航空やデルタ航空に対し、中国側の要求に従って飛行計画を通知するよう勧告し、事前報告を行っている。このことの真意については、いくつかの解釈がありえるが、私は、米国が、自国の民間航空機への万一のリスク回避のためにやむなく取った方策、とみるのが妥当ではないか、と考えている。

これはわが国にとって高度な外交マターである。対応は政府に任せるしかないが、少なくとも、中国の防空識別圏を事前報告なく飛行する日本の民間航空機が一定のリスクに晒されていることの認識は重要である。それを喚起した石原発言を私は評価している。個人的には、日台間の飛行機便を使う際だけは、日本の民間航空機は避けようと思っている。