日本国憲法の平和主義

日本国憲法の特色に、基本的人権の尊重、三権分立、平和主義があげられるが、前2者は現代の主要国家共通のものであり、平和主義こそが日本国憲法独自の特色である。この平和主義は、憲法前文の「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」という認識と、それに基づく憲法9条の「戦争」「武力の行使」を放棄し、「戦力」を保持せず、「交戦権」を認めない、から成っている。
憲法9条の是非やその解釈は、多く議論されているが、私はなによりもこの9条を支える憲法前文の世界情勢や国際関係についての見方、認識について議論すべきだと考えている。

人類は二度の世界大戦を経験しているが、第一次世界大戦では、戦後、戦勝国も軍縮に取り組んだ。戦争のない世界を、軍縮により実現しようという思いがあったのである。しかし、第二次大戦では、敗戦国である日本、ドイツ、イタリアに武装解除を求めたものの、戦勝国は軍縮に取り組むことはなかった。軍縮により平和の実現をはかろうとした第一次大戦後と違い、第二次世界大戦後の国際社会は、戦勝国の武力でもって、平和を維持しようとしてきたのである。
憲法前文にある「平和を維持し、専制と隷従・・を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会」とは、日本の憲法9条にある武力放棄でもって平和を志向するものはなく、戦勝国の武力でもって平和を維持しようとしたものなのである。
このことは国連の、国際社会の平和の維持のもっとも重要な役割を占める安全保障理事会の常任理事国を、戦勝国5カ国が独占を続けていることからもあきらかである。これらの国は、すべて核保有国でもある。

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」とある。もしこの理念が現実の国際社会の中にもあるのであれば、戦後70年近くにわたって世界の憲法の中でも稀な平和主義を掲げる憲法を維持してきたわが国こそ、安全保障理事会の常任理事国という「名誉ある地位」を得て当然のはずである。しかし、現実には得られていない。

さらに、戦後の国際社会は実際に多くの戦争、紛争を経験してきた。「平和を愛する諸国民」同士が、戦争を繰り返してきたのである。また日本の国民を拉致し、日本に向けてミサイルを発射する北朝鮮も国際社会の一員である。国際関係は日々、変化するものである。終わったと思われていた冷戦が、ウクライナ危機で復活しつつある。またアメリカとの軍事同盟を1992年に破棄したフィリピンが、中国の脅威の前に再びアメリカとの軍事同盟を組んだ。これが、国際社会の現実である。

日本国憲法のすべての前提には、日本国民の「安全と生存」の保持があるはずである。これを、「平和を愛する諸国民」を信頼して保持できるのか否かが問われるべきなのである。

日本は、9条の規定にかかわらず、すでに現実に自衛隊という紛れも無い「戦力を保持しており、アメリカとの軍事協定の中でわが国の「安全と生存」を保持している。日本の「安全と生存」の保持の実際のあり方と、憲法前文、9条との間には間違いなく大きなギャップがある。ふと思い出したのが、1994年の自民党・社会党・さきがけの連立政権である。当時の自民党は、政権復帰のために、社会党左派の、護憲主義者の村山富一氏に国政を委ねた。その際に自民党中枢が村山氏に尋ねたのはたった二点だったという。ひとつは、自衛隊を解体するのか、もう一つが日米安全保障条約を破棄するのか。村山氏の答えはいずれもノーであったという。

集団的自衛権をめぐって、憲法解釈の変更が議論されている。今こそ、日本の「安全と生存」の保持のあり方を問いなおすいい機会である。私はその議論は、憲法前文の世界情勢「観」の見直しから始めるべきだと考えている。