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武雄市ICT教育リンク集

佐賀県武雄市は、2014年4月に、全小学生にタブレット端末を配布。2015年4月には全中学生に配布。2014年5月からは、そのタブレットを活用した反転学習(武雄市では、スマイル学習)、10月からはプログラミング教育などを開始。東洋大学は、このスマイル学習,プログラミング教育の検証作業を行っています。本ページは、その関連リンク集です。

◆武雄市「ICTを活用した教育」2014年度第二次報告要約版→東洋大学が行った武雄市の「ICTを活用した教育」についての第二次検証報告(2014年9月)の要約版です、
https://www.city.takeo.lg.jp/kyouiku/docs/20150928kyouiku02.pdf

◆武雄市「ICTを活用した教育」2014年度検証報告Kindle版→上記の報告の要約版+本編のKindle版(500円)です。
http://www.amazon.co.jp/dp/B0175XMFAW

◆プログラミング学習についての、東洋大竹村学長、南場DeNA会長の対談(児童作品の動画があります)
http://www.toyo.ac.jp/site/gakuhou/dena-toyo.html

◆東洋大学学報「産学官連携によるICT教育の推進を目指してhttp://www.toyo.ac.jp/site/gakuhou2014/51428.html

◆プログラミング学習・記者発表(2014年6月25日)「武雄市にて「武雄市✗DeNA✗東洋大学 小学校1年生向けプログラミング教育実証研究プロジェクト」(ustream中継)http://www.ustream.tv/recorded/49176273

◆川崎修平(DeNA/CTO)会見全文http://dena.com/jp/csr/programing-education/detail/

◆プログラミング教育開始の会見記事(2014年6月)
http://www.huffingtonpost.jp/2014/06/25/takeo-programming-tomoko-namba_n_5531849.html

無業社会 (朝日新書) 2014/6/13 工藤 啓 , 西田亮介

【この書評は、『国際公共経済研究』第25号(2014年9月)に掲載されたものです。引用等は、掲載誌からお願いいたします。】

本書は、就職できない、あるいは、就職しない若者を「無業」という言葉括り、この一種の社会病理の解明とその解決策を探ろうとする労作である。ともに若手の実践家と研究者による共著であり、二人のコラボレーションも注目されるところである。

この書の基本的視点は、無業の若者たちは、自らの資質などによってではなく日本の社会システムのあり方からそういった立場に追い込まれている、というところにある。その視点を踏まえて、本書は無業状態の若者を就業へ向かわせるための政治や社会への問いかけを行おうとしている。

この問題意識が現実を動かすところにつながるか否かは、本書がどれだけの説得力をもって本書の読者や広く世間に問いかけられているか、にある。その視点で、私の本書への疑問を述べるところから紹介を始めたい。

 

【無業と生活保護の間】

私は、「失業」という言葉を用いずに、「無業」という言葉を使って仕事に就かない若者の実態を解明し、その一種の社会病理の解決を図ろうとしたのは、本書の卓見だと思っている。

日本では、「失業者」は統計上、月末の一週間に実際に仕事を探した人に限定されており、仕事をそもそも探さない人、探すことをあきらめている人は、そこから除外されている。しかし、現実には働く意思は持ちつつも、求職活動を行わずに「失業者」の定義の枠外に置かれている存在がある。彼らを含めて、「無業者」という新たな概念で括ったのである。そしてその中で、就職活動を行っていない、失業者にも該当しない(非求職型無業者)層に焦点を当てたのが本書である。

しかし若者全体で見れば、非求職型の無業者は一部にすぎない。若者たちは仕事をしている「就業者」、無業者の中で実際に仕事を探している「失業者(求職型無業者)」、そして本書が焦点を当てる「(非求職型)無業者」、そして「ホームレス」、「生活保護受給者」に分かれる。さらにそこには、「学生」も含まれる。本書は、この様に若者全体から問題を考えていく視点に欠けている。本書は、無業状態にある若者からの丁寧なインタビューを行っている。そしてその状態に陥ったきっかけが、人間関係、突然の解雇、就職試験に落ち続けること、などにあることを示している。しかし、強く違和感を持つのは、ホームレスや生活保護受給者となっている無業者からのインタビューがない点である。

無業問題への取り組みが社会的に必要だということを説得力をもって論じるには、親との同居や支援がかなわずぎりぎりの思いで働き続けている若者や、ホームレス、生活保護受給者となっている若者にも目を向ける必要があったのではないか。「働かざる者食うべからず」などと言う気は毛頭もないが、本来、働かなければ食べられないのである。

本書は、「親のすねをかじれるから働かないのでは?」という問いに「正社員でなければ同居するしかない」と答えている。しかし若者たちには、同居できる環境にあるものと、同居しようにもできないものがいる。であるのに、本書は事実上、親との同居が可能か、あるいは一定の支援を得られる「働かなくても食えている、非求職型無業者」にのみ焦点を当ててはいないだろうか。

また、無業は景気変動と無縁ではない。特に、本書で述べられているように、日本で少子化が進むことで、若者自体の人口が減っていく中で、昨今の景気回復が伴えば、有効求人倍率の上昇が続くことは間違いない。今まで「買い手市場」であった労働市場が「売り手市場」に変われば、面接などの選抜のあり方は、求職者に有利な方向で変わっていくものである。その結果、非求職型無業者が再び労働市場に戻っていく可能性は低くないはずである。そうなれば、景気回復によって無業問題は、いわば自動的に縮小していくのかもしれない。この点への論及もあってしかるべきであった。

非求職型無業は、ぎりぎりのところで働き続けている就業者や、失業者(求職型無業)と相当の関連を持つはずなのに、本書はその点の分析に乏しいのである。

 

【無業は、日本独自の問題なのか】

無業の問題は、日本が抱える多くの社会病理の中での一つの各論である。しかし、それは単なるひとつの各論ではなく、「日本の社会システムの歪みの典型的な象徴」であるとするのが、本書の立場である。だからこそ、無業の問題に目を向けて、その解決をはかることが社会的に求められており、そのことが結果的に、日本の社会システムの歪みの是正にもつながるとの思いが込められている。

その上では、無業が日本の社会システムの歪みの結果生じたのか否かが前提となるが、「日本の社会システム」と大上段に構える以上は、他の先進諸国と日本の社会システムの異同をある程度は明らかにする必要がある。少なくとも、無業と関わるところについては、両者の異同について、何らかの言及は必要であっただろう。

欧米諸国の中では若者の失業率が、3割から4割に上る国は数多く存在する。これらの国は、日本に比べて統計上の失業の基準が緩いために、本書がいう「非求職型無業者」の相当部分が失業者に入り込んでいると考えられる。これらの国は、数百万人もの「失業/無業」の若者を抱えている。その中に「非求職型無業者」が、日本以上に含まれている可能性もある。

日本の無業者が、日本独自の「歪み」によって生じたものなのか、成熟段階に達した先進国共通の問題なのかの見極めは、決定的に重要な問題なのである。しっかりとした国際比較を行った上で、「日本」の無業が、「日本の社会システム」の独自の歪みによって生じたことを示すことができれば、本書の価値はより高まったであろう。

 

【求められる具体策の提示】

本書は、無業の若者と実際に取り組む実践家と、社会科学の研究者との共著である。そこで求められるのは、実践事例から発する、なんらかの具体的な解決策の提示である。しかし本書では無業に対する調査の必要性や、「①現段階で困窮している人の救済、②若年無業者の就労促進、③無業者を労働市場に再参入できる仕組み作り」をあげるにとどまっている。日本の社会システムの歪みを是正する総論の提示は難しいにせよ、なんらかの複数の具体策の提示はあってしかるべきではなかっただろうか。

本書の中で、「面接を避けるというわけではないのですが、働きぶりを先にみてもらえるものにチャレンジ」という若者の言葉が紹介されている。企業に対して、面接せずに仮採用をして給料を払い、その姿をみて本採用してほしい、という内容である。本書はこの言葉を肯定的にとらえていると考えられるが、そうであるならば、たとえば、「面接が苦手な若者のために、採用に直結するインターシップ的な制度を日本企業に導入すべき」という具体的な提案があってもよかったのではないか。また、仮に無業の多くが景気の低迷によって生ずるものであるならば、景気の回復によって問題の一定の部分は解決することになる。また、その原因が、日本独自のものであれば日本独自の対策が必要となり、先進主要国共通の問題であれば、その対策の中心は、先進国共通のものとなる。こうした検討の不足が、本書が抽象的な提案に留まっている一因と考えられる。

 

【なぜ、政府の取り組みを検討しないのか】

本書の具体的な提言がなされていないことのより深刻な問題は、政府の政策への言及がないことである。

実際には、政府も、無業や生活保護の問題に長く取り組んできており。2013年秋の国会で、「生活保護法改正案」と「生活困窮者自立支援法案」を成立させている。この自立支援法は、生活保護受給者に限らず、広く失業者(本書が言う無業者を含む)や生活困窮者を就業に導き、自立支援の制度を作り上げようとするものである。

この法律が十分なものだと言うつもりは全くない。しかし本書の執筆段階から、政府の中で具体的にこの議論が展開されており、その情報も公開されていた。本書が主張しようとした、無業の若者を就業に導くという問題意識は、この法律と相当の部分で重なるはずである。しかし本書では一切この法やその制定に至る議論に触れられていない。本書が掲げる問題の本質が日本の社会システムの歪みにあると指摘するのならば、政府の取り組みのどこが不十分なのか、対処の仕方のどこに間違いがあるのか、あるいや問題の把握の仕方に欠陥があるのか、といった指摘はなんとしても必要であったし、私も筆者の見解を知りたいところであった。

無業という一つの社会の病理現象に着目して、それを無業に陥った若者の自己責任の問題ではなく、日本の社会システムの歪みの問題だとする本書の視点は評価できる。そして、この無業問題を国民の多くが認識して対策に取り組むことが、個別の社会問題の解決にとどまらずに、日本の社会システムの歪みの是正につながるとの筆者の思いも理解できる。

しかし、ここまで述べてきたように、本書がそれを一定の説得力をもって人口に膾炙することに成功する構成になっているとは思えない面も多々ある。無業という深刻な問題に取り組む、本書の筆者である若い実践家と研究者とのコラボレーションが進み、実践と研究を深めて、説得力をもった提言がなされることを期待したい。

フライング(発売前)書評 樋渡啓祐著『沸騰!図書館』(角川oneテーマ21)

【5月10日発売のこの本を、9日、twitterで紹介しました。】

「閉館は夕方。それ以降に利用したいと思う市民がいてもまず利用できない」「僕はこういう図書館が嫌い」。「本は人生を豊かにする。その本が集まる図書館は多くの人が利用できるようにするべきだ。」。御意!

改革後、来館者は3.2倍。つい先日、100万人を突破。まさに「多くの人が利用」できるようになった。ちなみに、改革前後で、年間開館時間は、なんと2倍超。開館時間が延び、休館日がなくなったから。それにしても、2倍は見事!しかしこれに文句を言う人も!

その文句を言う人として、この書で批判されているのが、図書館総合展(2013年10月)の「武雄市図書館を検証する」シンポに、樋渡啓祐市長と登壇した、糸賀雅児・慶応義塾大教授。僕はこのシンポの記録を見ていたので、本書の中での市長の反批判に、快哉!

糸賀教授の武雄市図書館批判はシンプル。「来館者は、3.2倍になっているが、図書貸し出し数は1.6倍」。これでは、成功とは言えない、と。来館者の大半は、スタバと雑誌だ。図書館じゃなくて「ブックカフェ」「マガジンカフェ」とまで言い切っている。

糸賀教授は、来館者数と図書貸出数の変化は同じであるべきだ、と述べているが、来館者数の伸びに、貸出数が追いついていないことが、武雄市図書館の改革を否定する論理になぜなるのか?減っていれば問題なのはわかるが、1.6倍にも!!なっているのに・・。

僕は、何度も武雄市図書館を訪れている。残念ながらまだ本を借りたことはない。でも、スタバのコーヒーを飲みながらページをめくるのは、至福の時間である。しかし、糸賀教授からすると、僕は図書館の目的外利用者で、員数外らしい。

糸賀教授は、図書館総合展シンポでは、武雄市図書館と伊万里市図書館を比較して、武雄の図書館資料の利用率が低い、とも批判している。カフェも新刊書店もない伊万里市図書館と比較することが疑問だし、図書貸出数が1.6倍になっていることから類推するに、図書館資料の利用絶対数も増えているはず。

樋渡市長の本書にある「本は人生を豊かにする。その本が集まる図書館は多くの人が利用できるようにするべきだ。」として、見事に来館者数3倍超を実現したことにたいして、糸賀氏が貸出数の伸びが追いつかないことなどをもって批判する学術的根拠が僕には理解できない。

ひとつだけ糸賀氏がすごいと思うのは、武雄市図書館を「フックカフェ」「マガジンカフェ」「武雄ナレッジパーク」「知のワンダーランド武雄ドーム」と、図書館以外のネーミングをたくさん出しているところ。樋渡さん、いっそ武雄市図書館を「知のワンダーランド・武雄」とかに変えちゃえば??(了)

日本国憲法前文の世界情勢「観」②完

再び日本国憲法前文である。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」とある。もしこの理念が現実の国際社会の中にもあるのであれば、戦後70年近くにわたって世界の憲法の中でも稀な平和主義を掲げる憲法を維持してきたわが国こそ、安全保障理事会の常任理事国という「名誉ある地位」を得て当然のはずである。しかし、現実には得られていない。

さらに、戦後の国際社会は実際に多くの戦争、紛争を経験してきた。「平和を愛する諸国民」同士が、戦争を繰り返してきたのである。また日本の国民を拉致し、日本に向けてミサイルを発射する北朝鮮も国際社会の一員である。国際関係は日々、変化するものである。終わったと思われていた冷戦が、ウクライナ危機で復活しつつある。またアメリカとの軍事同盟を1992年に破棄したフィリピンが、中国の脅威の前に再びアメリカとの軍事同盟を組んだ。これが、国際社会の現実である。

日本国憲法のすべての前提には、日本国民の「安全と生存」の保持があるはずである。これを、「平和を愛する諸国民」を信頼して保持できるのか否かが問われるべきなのである。

日本は、9条の規定にかかわらず、すでに現実に自衛隊という紛れも無い「戦力を保持しており、アメリカとの軍事協定の中でわが国の「安全と生存」を保持している。日本の「安全と生存」の保持の実際のあり方と、憲法前文、9条との間には間違いなく大きなギャップがある。ふと思い出したのが、1994年の自民党・社会党・さきがけの連立政権である。当時の自民党は、政権復帰のために、社会党左派の、護憲主義者の村山富一氏に国政を委ねた。その際に自民党中枢が村山氏に尋ねたのはたった二点だったという。ひとつは、自衛隊を解体するのか、もう一つが日米安全保障条約を破棄するのか。村山氏の答えはいずれもノーであったという。

集団的自衛権をめぐって、憲法解釈の変更が議論されている。今こそ、日本の「安全と生存」の保持のあり方を問いなおすいい機会である。私はその議論は、憲法前文の世界情勢「観」の見直しから始めるべきだと考えている。

日本国憲法前文の世界情勢「観」①

日本国憲法の特色に、基本的人権の尊重、三権分立、平和主義があげられるが、前2者は現代の主要国家共通のものであり、平和主義こそが日本国憲法独自の特色である。この平和主義は、憲法前文の「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会」という認識と、それに基づく憲法9条の「戦争」「武力の行使」を放棄し、「戦力」を保持せず、「交戦権」を認めない、から成っている。
憲法9条の是非やその解釈は、多く議論されているが、私はなによりもこの9条を支える憲法前文の世界情勢や国際関係についての見方、認識について議論すべきだと考えている。

人類は二度の世界大戦を経験しているが、第一次世界大戦では、戦後、戦勝国も軍縮に取り組んだ。戦争のない世界を、軍縮により実現しようという思いがあったのである。しかし、第二次大戦では、敗戦国である日本、ドイツ、イタリアに武装解除を求めたものの、戦勝国は軍縮に取り組むことはなかった。軍縮により平和の実現をはかろうとした第一次大戦後と違い、第二次世界大戦後の国際社会は、戦勝国の武力でもって、平和を維持しようとしてきたのである。
憲法前文にある「平和を維持し、専制と隷従・・を地上から永遠に除去しようと務めている国際社会」とは、日本の憲法9条にある武力放棄でもって平和を志向するものはなく、戦勝国の武力でもって平和を維持しようとしたものなのである。
このことは国連の、国際社会の平和の維持のもっとも重要な役割を占める安全保障理事会の常任理事国を、戦勝国5カ国が独占を続けていることからもあきらかである。これらの国は、すべて核保有国でもある。(続く)

中国の防空識別圏を考える②完

いうまでもなく防空識別圏は領空ではなく、公海上空であり、基本的に自由航行権がある。また、日本の防空識別圏と重なる中国の防空識別圏を通過するに際して、日本の民間航空会社が事前報告を行えば、事実上、日本が中国の防空識別圏を認めたことにもなりかねない。だからこそ、日本政府は、日本航空や全日空に対して、事前報告を中国にたいして行わせないようにしているのである。

しかし、中国の防空識別圏の設定発表と同時に発表された公告によると、防空識別圏を飛行する航空機は、中国側の指示に従わなければならないとしており、従わなければ武力で防衛的緊急措置が取られることも書かれている。これは公海上空での武力行使を行うことを意味していて、国際法上許されるものではないが、書かれているという事実は事実である。

1983年の大韓航空機撃墜事件は、領空侵犯という緊急事態への対応の中で起きた不幸な事件である。現状は、石原代表が危惧するように、中国防空識別圏への日本の民間機の事前報告なき飛行は、国籍不明機と判定されても仕方がない状況での「侵入」という状況になっているということである。そしてそれは、国際ルールでの「スクランブル対象」どころではなく、「武力」行使の対象でもあるのである。

米国は、中国の防衛識別圏の設定を強く批判しながらも、連邦航空局FAAがユナイテッド航空やデルタ航空に対し、中国側の要求に従って飛行計画を通知するよう勧告し、事前報告を行っている。このことの真意については、いくつかの解釈がありえるが、私は、米国が、自国の民間航空機への万一のリスク回避のためにやむなく取った方策、とみるのが妥当ではないか、と考えている。

これはわが国にとって高度な外交マターである。いうまでもなく防空識別圏は領空ではなく、公海上空であり、基本的に自由航行権がある。また、日本の防空識別圏と重なる中国の防空識別圏を通過するに際して、日本の民間航空会社が事前報告を行えば、事実上、日本が中国の防空識別圏を認めたことにもなりかねない。だからこそ、日本政府は、日本航空や全日空に対して、事前報告を中国にたいして行わせないのである。

しかし、中国の防空識別圏の設定発表と同時に発表された公告によると、防空識別圏を飛行する航空機は、中国側の指示に従わなければならないとしており、従わなければ武力で防衛的緊急措置が取られることも書かれている。これは公海上空での武力行使を行うことを意味していて、国際法上許されるものではないが、書かれているという事実は事実である。

1983年の大韓航空機撃墜事件は、領空侵犯という緊急事態への対応の中で起きた不幸な事件である。現状は、石原代表が危惧するように、中国防空識別圏への日本の民間機の事前報告なき飛行は、国籍不明機と判定されても仕方がない状況での「侵入」という状況になっているということである。

米国は、中国の防空識別圏の設定を強く批判しながらも、連邦航空局FAAがユナイテッド航空やデルタ航空に対し、中国側の要求に従って飛行計画を通知するよう勧告し、事前報告を行っている。このことの真意については、いくつかの解釈がありえるが、私は、米国が、自国の民間航空機への万一のリスク回避のためにやむなく取った方策、とみるのが妥当ではないか、と考えている。

これはわが国にとって高度な外交マターである。対応は政府に任せるしかないが、少なくとも、中国の防空識別圏を事前報告なく飛行する日本の民間航空機が一定のリスクに晒されていることの認識は重要である。それを喚起した石原発言を私は評価している。個人的には、日台間の飛行機便を使う際だけは、日本の民間航空機は避けようと思っている。

中国の防空識別圏を考える①

2014年2月12日(水)、衆議院予算委員会で日本維新の会の石原代表が、日本・台湾の航空路の危険性について、1983年の大韓航空機がソ連軍機に撃墜された事件を引き合いにだして言及した。私は、これは重要な警告だと思う。

ことの発端は、2013年11月23日、中国が、尖閣諸島上空などを含む東シナ海の広い範囲に、防空識別圏をAir Defense Identification Zone, ADIZ設定したことにある。この範囲は、日本の防空識別圏と大きく重なり、日中間の緊張が高まることが懸念されている。石原代表の指摘は、この中国の防衛識別圏には、日本の民間航空の日本・台湾の空路が含まれることによるものだ。

防空識別圏とは、領空侵犯に備えるため領空の外側に設定した空域である。当該国が公表し、圏内に入る航空機には、国籍確認などのため事前に通過位置、通過予定時刻の報告を求めるものとなっている。報告なく侵入した場合は、国籍不明機と判断され、迎撃戦闘機のスクランブルの対象となる。

このため、日本航空や全日空は、いったん中国の防空識別圏に従って台湾航路の事前の報告を行う方針を決めたが、現在は撤回している。石原代表は、太田国土交通大臣に「現在も、中国の防空識別圏を通過する民間航空機は事前の報告を行っていないのか」という旨の質問をして、大臣から「していない」との答弁を得ている。この事態にたいして、石原代表は危険な状態だとの認識を示したのである。

NHK会長、経営委員問題を考える②・完

2006年の竹中懇談会では、NHKのガバナンス問題を真剣に議論した。当時から、1月31日付けの朝日新聞の紙面に載った、NHK関係者のような発言は繰り返し私の耳にも入ってきていた。経営委の権限強化が「政治が経営に直接介入」する余地を生む、と。

しかし、それにはNHKという巨大組織のガバナンスをどう機能させるのか、という難題の解はない。一般の株式会社には、株主総会というガバナンスが、政治には選挙というガバナンスがかかる。NHKのガバナンスは、国会同意人事の経営委員会にゆだねるしかない、が懇談会の結論であった。経営委員が政府の任命であれば、政府の影響を受ける懸念がある。だからこその、国会同意人事である。現代の日本で、これ以上中立性を担保する制度はない、といってよかろう。長く続いた衆参ねじれ状態の下で、日銀総裁などの国会同意人事でどれだけ混乱してきたか、を思い出して欲しい。

今回の経営委員は、久々のねじれ解消状態で選ばれた。その選び方が問題だということになると、衆参ともに、自民党に勝たせた国民の判断が問題だ、といわざるを得ないことになる。だからこそ私は、「会長を選んだ委員に問題があるなら委員を送り込んだ政権に次の選挙で『ノー』というしかない」とコメントしたのである。より強い中立性を担保するのであれば、例えばNHKの経営委員だけは、憲法改正のように衆参共に3分の2の賛成が必要とするとかないはずである。

私が驚いたのが、今回の会長発言を受けて、民主党が出した、経営委員会独立性強化のために、総務相の下に有識者で構成する「選定委員会」を新設し、そこが首相に経営委員候補リストを提出する、という方針である。国会同意人事を、政府の総務省の委員会が縛る、ということになる。公共性を担保する、いわば政府の好きにさせないための国会同意という制度を、政府の中の1府省の大臣の委員会にゆだねるというおかしさ・・・。

私は、政策の方向性が異なることについては、しっかり議論はするが寛容である。しかし、こういった論理的思考力の欠如事例に対しては、厳しい。この趣旨の法案(放送法改正案)をもし民主党が国会に出してきたら、たぶん、この政党の未来は限りなく暗いと断言していい。(了)

NHK、会長・経営委員発言問題を考える①

NHKが揺れている。籾井勝人会長の発言はもとより、経営委員の二人の発言も物議を醸している。こういった言動は、問題であるのは間違いない。NHKの経営委員なり、会長なりに選ばれた段階で、言動には十二分に注意すべきだ。就任会見で政治的中立性などおかまいなしの発言をした籾井会長は、NHKにかかわらず、責任ある立場につく資格があるのかすら疑われても仕方ない。慶応義塾大の岸博幸教授が「『うちは日本政府のご用メディア』と言ったことと同じ」(朝日新聞1月31日朝刊)と喝破したが、私もまったく同意見である。

問題は、そういった会長が選ばれた経緯にある。岸氏のコメントが載った朝日新聞の記事も、そこを問題にしている。2006年に、竹中平蔵・総務相(当時)の私的懇談会「通信・放送に関する懇談会」が作られ、そこでNHKのガバナンス強化のために経営委員会の権限強化の方向が打ち出された。その後、その方向で放送法が改正された。今回の会長人事も原因がそこにあるとの見方もあり、記事では「NHKへのガバナンス強化という名の下、政治が経営に直接介入する余地が生まれてしまった」という「NHK関係者」のコメントを載せている。

実は、岸氏は当時の竹中総務相の秘書官、そして私が、懇談会座長であった。朝日新聞の記事には、①NHK関係者の経営委の放送法改正での経営委の権限強化が「政治が経営に直接介入」をもたらしたとのコメント ⇒②当時の立役者の岸氏の「政府のご用メディア」コメント ⇒③当時のもう一人の立て役者の松原の「あんな会長が選ばれるような制度を作ってしまった反省」コメント、という三段構えの記事にしたかった向きがある。

しかし、私は長い取材にもかかわらず、断固、「反省」せずに、「経営委員が国民を代表する国会の多数で決まるのは当然。それが民主主義だ。会長を選んだ委員に問題があるなら委員を送り込んだ政権に次の選挙で『ノー』というしかない」とコメントし、それが紙面に掲載された。

おそらく、取材意図とは異なるコメントであったが、(会長選びの)「仕組みの改善は難しそうだ」として私のコメントを私の発言の趣旨通りに掲載したのは、さすが朝日新聞である。(私は、ボツだと思っていた) 続く

障害者差別解消法の実効ある施行のために

障害者差別解消法について 障害者差別解消法(障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律、平成二十五年(2013年)六月二十六日法律第六十五号)が成立し、平成二十八年(2016年)四月一日に施行されることになった。民主党が作っていた法律案を、政権交代で自民党が引き継ぎ、かつ、衆参ねじれの中で成立させたのは「針の穴を通す」ようなものであった。(⇒当コラム2013年5月2日「障害者差別解消法の今国会成立を」http://satorum.net/?p=3847) また、この法律の成立を受けて、批准が遅れていた国連障害者権利条約Convention on the Rights of Persons with Disabilities=あらゆる障害者の、尊厳と権利を保障するための人権条約)2013年12月4日、参院で批准され、2014年1月20日、国連事務局で承認された。

まずはこの法律の成立と条約の批准は、日本の障害者政策からみて画期的なものであり、高く評価したい。  しかしこの法律が実効を持って施行されるためには、障害を持つ当事者の方、そして行政機関等、事業者、そして国民全体が、以下に示すこの法律の仕組みをしっかりと理解する必要がある。

 

①「社会的障壁の除去」には、障害者からの意思の表明が必要であること。⇒行政や事業者が自ら、社会的障壁の除去をするのではない。 ②「社会的障壁の除去」には、行政機関等や事業者(民間)があたるが、その際に「負担が過重でないとき」という留保条件がつけられていること⇒予算等の制約があれば、除去しなくてもいいということにも・・ ③「社会的障壁の除去」は、行政機関等は義務(上記の留保条件あり)であるが、事業者は義務ではない(さらに上記の留保条件あり)こと。  つまり、社会的障壁を「障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合」に、行政機関等は「負担が過重でないとき」に除去の義務が生じ、事業者は、「負担が過重でないとき」に除去の努力義務が生じる、ということである。  この法律の仕組みからすると、この法律が実効を持って施行されるためには、①障害者が意思の表明をする場(誰に、どうやって?)が明確であること、②その表明に対して迅速、明確な対応がなされること、③その対応には、「除去の可否、可の場合はいつまでに対応を始め、いつまでに完了するのか、否の場合はその根拠を示すこと」、などが含まれること、④その対応について、意思表明者が不満を持つ場合の相談・対応窓口が明確であること、などが必要となる。

たとえば、車いすを使用している障害者が、ある公立図書館で車いす用のスロープがなく図書館に入ることができないという「現に社会的障壁の除去を必要」としたという事態について、その障害者が誰に意思の表明をすればいいのか、またその意思の表明をした後に、どのような対応がなされるのか、そしてその対応に不満であった場合に、どこにその不満を申し出ればいいのか、これが、法律の施行時(2016年4月1日)までに制度的に確立している必要があるということである。 (了)